新選組のその後|鳥羽伏見のあと、隊士たちは1915年までどう生きたのか
1868年1月、鳥羽伏見の戦いで新選組は敗れました。教科書はそこで終わります。
けれども隊士たちは、板橋で、函館で、そして明治の浜松・京都・小樽・東京で、それぞれの最期を迎えました。誰が最期を見たのか、写真が残る5人のうち最後まで生きたのは誰か。日記・回想・公文書の日付でたどります。
教科書の「その先」が気になる方は、ぜひ最後までご覧ください。
0:00 鳥羽伏見、その夜
2:20 淀、井上の首
4:29 流山の投降、板橋の朝
10:17 内藤新宿の植木屋
14:38 会津の別れ
17:28 ここまでの行方(1868年)
18:16 一本木関門、土方の最期
25:43 弁天台場、最後の隊長
29:30 ここまでの行方(1869年)
30:42 浜松の火薬商、西本願寺の夜警
35:40 小樽の杉村義衛
42:23 警視庁の藤田五郎
49:15 誰が最期を見たのか
52:02 もしも:記録にない話
【本動画の主な史料・参考文献】
・『太政官日誌』慶応四年閏四月第十三・夏五月第一六【一次】
・島田魁『島田魁日記』、永倉新八『浪士文久報国記事』【一次】
・永倉新八『新撰組顛末記』【回想】
・中島登『戦友姿絵』『中島登覚え書』、大野右仲『函館戦記』、『麦叢録』、小島鹿之助『両雄士伝』、有馬純雄『維新史の片鱗』1921、相馬主計『贈友談話』【一次】
・子母澤寛『新選組始末記』1928『新選組遺聞』1929『新選組物語』1931【作品。言い切りに使わない】
・大石学『新選組 「最後の武士」の実像』中公新書 2004
・大山柏『補訂 戊辰役戦史 下』時事通信社 1988
・浦出卓郎「大島寅雄『奥羽軍記』に見る戊辰戦争時の新選組と斎藤一の動向」『会津人群像』36 2018
・青森県『青森県史 通史編』2018、星亮一『斗南藩』2018、葛西富夫 1988
・杉村悦郎『子孫が語る永倉新八』新人物往来社 2009
・日本経済新聞 2015-09-05・2016-07-15、北海道新聞 2025
・コトバンク、市立函館博物館・函館市史・北区・新島村博物館・日野市の公開資料
【画像の出典】
保勲会『戊辰戦記絵巻物』前編第六図「鳥羽関門の戦い」、伏見に上陸する会津兵の図、土方歳三 肖像写真、近藤勇 肖像写真、錦絵「毛利島津山 官軍大勝利之図」、永倉新八 数え75歳、藤田五郎単身写真 1897年11月14日、島田魁 晩年、近藤勇と沖田総司とされる人物、永倉新八 若い日の写真、榎本艦隊の写真、渓斎英泉「木曽街道 板橋之駅」、流山本陣跡の現況写真、近藤勇 全身写真、相馬主計 肖像写真、板橋刑場跡、近藤勇の首の晒しを描いた1868年の図、松本良順肖像写真、江戸の地図 1860年ごろ、歌川芳虎「上野戦争」錦絵 1868、会津戦争後の若松城、中島登 肖像写真、松平容保 京都守護職時代の写真、錦絵「函館戦争之図」。土方・榎本・大鳥・松平太郎を描く、小杉雅之進画「徳川艦隊 品川沖脱走図」1868-08-19、箱館戦争 全体の戦況図、榎本武揚 1869年、旧幕府軍とフランス軍事顧問の集合写真、「奥州箱館之図」1863年ごろの箱館港の絵図、回天と甲鉄、甲鉄の写真 1866年ごろ、宮古湾海戦図、二股口の戦いの古地図、箱館総攻撃の戦況図、土方歳三最期の地碑、石田寺 土方家の墓、土方歳三資料館現況、弁天台場跡碑と函館どつく、中島三郎助 肖像写真、早川松山「五稜郭降伏之図」1877、榎本武揚 晩年の肖像、永倉新八 最晩年、川路利良 肖像、「鹿児島新報 田原坂激戦之図」1877
上記は Wikimedia Commons でパブリックドメインまたは CC0 として公開されている画像です。一部はトリミング・拡大・レイアウト加工を行っています。
地図は国土地理院の地理院タイル(陰影起伏図)を加工したものと、Natural Earth(パブリックドメイン)をもとに作りました。地名の位置はおおよそです。
※墨絵の場面は、生成AIで作った再現イメージです。
※最後の2分は、史料をもとにした想像の話です(本編で「ここからは、記録にない話です」と断っています)。
※諸説ある所は「〜と伝わる」「〜という説がある」とお伝えしています。
※地図・年表・行方の表・名の図は、史料をもとに作った図です。画面右上の西暦・和暦・場所は、その場面の目安です。
※斎藤一(藤田五郎)の写真は、1897年に撮られ、2016年に子孫が公開したものです。
#日本史 #新選組 #土方歳三
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