【日本史】「三本の矢」のその後…毛利3兄弟と3つの家の末路|68年後に残ったのは2本
三本の矢の話は、元就が3人の息子にあてた三子教訓状には出てきません。書状が願ったのは、毛利という名字を末代まで残すことでした。
1557年の書状から68年。毛利本家は112万石から36万9000石へ、小早川本家は1602年に途絶え、最後の2人は1625年の4月と9月に相次いで世を去りました。
この動画では、書状を受け取った3人と、その家を継いだ子や養子の7人を、68年間、一人ずつ追います。
今回の動画のポイント
・三子教訓状|1557年、「3人とも滅亡」と書いた父
・毛利隆元|6年目、41歳の急死
・吉川元春・元長|29年目、隠退から九州へ出て57歳
・小早川隆景・秀秋|45年目、21歳で家が絶える
・毛利輝元|68年目、112万石から36万9000石へ
・吉川広家|本家と別の道を選び、残した2か国
・3つの家の行方|68年後に2つ、322年後に3つ
隆元の佐々部、元春の小倉、隆景の三原、輝元の萩、広家の岩国など、毛利・吉川・小早川の3家にまつわる伝承が地元に残っていれば、コメント欄で教えてください。
▼目次
00:00 はじめに
01:16 三子教訓状|1557年、「3人とも滅亡」と書いた父
03:40 毛利隆元|6年目、41歳の急死
05:27 吉川元春・元長|29年目、隠退から九州へ出て57歳
07:29 小早川隆景・秀秋|45年目、21歳で家が絶える
10:22 毛利輝元|68年目、112万石から36万9000石へ
14:05 吉川広家|本家と別の道を選び、残した2か国
16:25 まとめ 3つの家の行方|68年後に2つ、322年後に3つ
諸説について(本編で採用した説/ほかの説)
・三子教訓状の年:1557年(弘治3年)と推定されています。
・三本の矢:書状をもとに後世に作られた話とする説を採りました。書状の文として紹介する解説もあります。
・元春の隠退:1582年。1583年とする研究もあります。
・元春の九州出陣:本家の輝元の要請によるとしました。秀吉の求めによるとする辞典もあります。
・秀秋が隆景の養子に入った年:1593年と1594年の2説を紹介しました。
・秀秋の岡山での石高:50万石。51万石とする辞典もあります。
・輝元の関ヶ原での立場:総大将格としました。総大将・盟主・主将とも書かれます。
・毛利家の石高:減らされる前は112万石(120万余石とも)、後は36万9000石(37万石・36万石とも)。
・萩城:1604年着工・1608年完成としました。1609年築城とする辞典もあります。
・広家の岩国の石高:初めは3万石としました。初めから6万石とする辞典もあります。
▼制作について
・ナレーションは合成音声です(VOICEVOX:青山龍星)。人名・地名の読みは、読み表をもとに辞書を登録して確かめています。
・絵の一部(8枚)は AI で作ったイメージです(OpenAI の画像生成)。該当する場面には、画面右下に「AIによるイメージ」と表示しています。人物の顔・家紋・旗印は描かせていません。
・地図・系図・年表・図は、上の資料をもとに本チャンネルで作成しました。効果音は本チャンネルでプログラムから作成しました。
・冒頭などのアニメの場面は本チャンネルで描いたイメージです。人物の姿は肖像画をもとにしたものではありません。家紋は各家の紋として知られる図柄を描いています。
▼訂正
・公開後に誤りが見つかった場合は、ここに追記します。
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