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【411年の謎】豊臣家はなぜ秀吉の死後17年で消えたのか|大名8人の「離反リスク」をAIで採点したら、家康に付いた4人が全員4位以内だった

滅亡のカルテ143回視聴投稿日: 2026/11/07
1615年5月、大坂城が燃えていた。秀吉の死から、わずか17年。豊臣家の恩を受けた大名は数えきれないほどいたのに、助けに来た大名はひとりもいなかった。なぜ誰も来なかったのか。 答えは合戦の中ではなく、当時の書状と記録に残る人と人との「線」の中にあります。縁組・養子・取りなし・処分の取り消し。誰が誰と縁を結び、誰が誰に借りを作ったのかをAIに洗い出させると、ある男のまわりにだけ線が集まっていきました。 後半では、豊臣家に近い大名8人(加藤清正・福島正則・黒田長政・小早川秀秋・毛利輝元・宇喜多秀家・大谷吉継・片桐且元)の離反リスクを、1600年6月までの記録だけでAIに採点させました。関ヶ原で家康の側に付いたのは誰だったのか。そしてAIが読み違えた一人とは。結果は第7章で公開します。 ■ 目次 0:00 序章 なぜ誰も来なかったのか 1:38 第1章 二つの窓口が消えた 3:23 第2章 秀次事件が残した借り 5:36 第3章 現場と管理部門 8:10 第4章 遺言と縁組 10:07 第5章 恩人になった家康 13:31 第6章 内府ちがひの条々 17:23 第7章 AI離反リスク診断 21:35 第8章 誰も来なかった城 ■ 第2弾「織田家はなぜ信長の死後、家臣に天下を奪われたのか」    • 【444年の謎】織田家はなぜ信長の死後、家臣に天下を奪われたのか|家臣8人の「謀反リ...   ■ 第1弾「武田家はなぜ40日で消えたのか」    • 【440年の謎】武田家はなぜ40日で消えたのか|家臣7人の「裏切りリスク」をAIで採...   ■ このチャンネルについて 滅亡のカルテは、歴史上の組織がなぜ壊れたのかを診断するチャンネルです。5日に1本、戦国の組織崩壊を取り上げます。 ■ 註 ・年月日は旧暦(和暦)の表記です。 ・「伝」の印が付いた話は、後世の記録や伝承によるものです。 ・書状の文面は、原文が確認できたものは原文、それ以外は要旨(現代語)で示しています。 ・AI離反リスク診断は、1600年6月までの記録を4つの項目(不満の記録、家康への借り、自前の領地、豊臣家からの遠さ)で採点した一つの見方です。採点は結果を知ったうえで項目を決めたもので、歴史上の人物の評価を断定するものではありません。 ・関ヶ原の「問鉄砲」など、よく知られた逸話には近年の研究で異なる見方が出ているものがあり、本編では記録に残る範囲で述べています。 ■ ナレーション VOICEVOX:青山龍星 ■ 使用した史料画像(すべてWikimedia Commons) ・豊臣秀吉像(狩野光信筆、高台寺蔵)パブリックドメイン ・豊臣秀吉像(大阪市立美術館蔵)パブリックドメイン ※サムネイルに使用 ・徳川家康像(狩野探幽筆)パブリックドメイン ・豊臣秀頼像(養源院蔵)・豊臣秀長像(春岳院蔵)・豊臣秀次像(瑞雲寺蔵)・豊臣鶴松像 パブリックドメイン ・淀殿(太閤五妻洛東遊観之図より)CC0 ・千利休像(長谷川等伯筆、表千家不審菴蔵)・大友宗麟像(瑞峯院蔵)パブリックドメイン ・石田三成像・加藤清正像(勧持院蔵)・福島正則像(東京国立博物館蔵)・黒田長政像(福岡市博物館蔵)・黒田孝高像 パブリックドメイン ・小早川秀秋像(東京大学史料編纂所 模写)・毛利輝元像(毛利博物館蔵)・宇喜多秀家像・片桐且元像 パブリックドメイン ・大谷吉継(歌川芳幾「太平記英勇伝」)・小西行長(歌川芳幾画)・前田玄以(月岡芳年「月百姿」)パブリックドメイン ・前田利家像・前田利長像(魚津歴史民俗博物館蔵)・芳春院像・浅野長政像・浅野幸長像 パブリックドメイン ・伊達政宗像(狩野安信筆)・細川忠興像(永青文庫蔵)・細川ガラシャ(小林清親画、ColBase)パブリックドメイン ・蜂須賀家政像・池田輝政像・島津義弘像・増田長盛像(栗原信充)・上杉景勝像(米沢市上杉博物館蔵)パブリックドメイン ・吉川広家像・織田秀信像(東京大学史料編纂所)・徳川秀忠像・千姫像・駒姫像 パブリックドメイン ・最上義光(長谷堂合戦図屏風より、最上義光歴史館蔵)パブリックドメイン ・長束正家(『関ヶ原合戦絵巻』国立国会図書館より。画像:Shoin1987, CC BY 4.0、一部を切り出し) ・大坂夏の陣図屏風・関ヶ原合戦図屏風・蔚山籠城図屏風(福岡市博物館蔵)パブリックドメイン ・二条城 唐門(写真:ほっきー, CC0) ・方広寺の梵鐘(写真:+-, CC BY-SA 3.0) ■ 参考(本編の記述の根拠) 『大友家文書録』、『伊達家文書』、御掟(文禄4年8月3日)、五大老連署状(慶長4年閏3月19日)、内府ちがひの条々(慶長5年7月17日)、本多忠勝・井伊直政起請文(慶長5年9月14日)、石川康通・彦坂元正連署状(慶長5年9月17日)、『薩藩旧記雑録』、島津家文書ほか。 #豊臣秀吉 #徳川家康 #関ヶ原の戦い #大坂の陣 #戦国時代 #日本史 #滅亡のカルテ

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