「年齢のズレをAIで計算」信長を討った男が、家康を神として祀ったのか?天海の正体は明智光秀【本能寺の変】
天正10年6月13日、1582年の夏の夜。山崎の戦いに敗れた明智光秀は、雨の中を城から逃れ、その途中で討たれて首は京でさらされたと、当時の記録の多くが伝えています。
ところが50年後、家康を神として祀る日光で、法会を取り仕切った老いた僧がいました。朝廷の役人の日記には「今年97歳」。家康から家光まで、徳川3代の将軍のそばにいた南光坊天海です。
「死んだはずの光秀が、天海という別人になって豊臣家に復讐した」。100年以上前から語られてきたこの説は、さらされた首と年齢の壁で退けられてきました。
今回は、天海の年齢を記した当時の日記、光秀の最期を書いた11の記録、天海の動きの地図のデータをAIで計算し、その出どころを一つずつたどりました。
光秀の最期と天海の正体の見方は、3つに分かれます。山崎の夜に討たれ、天海は別の人だった。生きのびたが、天海とは別の道をたどった。素性を語らない僧・天海として、徳川3代の将軍のそばにいた。
あなたは、どれだと考えますか? コメントで聞かせてください。
※ 動画の答えは、残っている当時の記録と、AIで数えた年齢・日数・道のりで読むなら、という条件付きです。
■ 目次
0:00 はじめに
2:05 1章 天海の年齢を記した日記には、何が書かれていたのか
5:48 2章 光秀は、本当に山崎の戦いの夜に討たれたのか
9:43 3章 さらされた首は、誰が光秀だと見分けたのか
15:50 4章 光秀が消えてから、天海はいつ現れたのか
20:36 5章 なぜ家康は、正体の分からない僧をそばに置き続けたのか
26:27 6章 どんな神として家康を祀るかを決めたのは、誰だったのか
31:21 7章 家光のまわりに、明智の名残はあったのか
34:50 8章 年齢の壁は、本当に動かないのか
39:16 9章 天海は、明智光秀だったのか
■ 主な史料
『孝亮宿禰日次記』『兼見卿記』『多聞院日記』『公卿補任』、フロイスの書簡(以上『大日本史料』第十一編・第十二編)、『豊鑑』、『徳川実紀』、須藤光暉『大僧正天海』(1916)ほか
※ 出典は、動画の各場面の右下に出しています。
※ サムネイルの絵と、動画内の情景画像の一部は、AIで作成したイメージです(サムネイルは天海像・明智光秀の肖像画をもとに作成)。
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