【保存版】これ一本でわかる南北朝全史 | 南北朝の動乱はなぜ59年も続いたのか
元弘3年(1333)5月22日、鎌倉の東勝寺で北条高時と一門が自害し、鎌倉幕府は滅びました。それから59年、日本には天皇が2人並ぶ時代が続き、元中9年・明徳3年(1392)閏10月5日、嵯峨の大覚寺で三種の神器が北朝の後小松天皇へ渡ってようやく終わります。
なぜ南北朝の動乱は、こんなにも長引いたのか。なぜその日に終わったのか。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の合一まで、62分でたどります。
【目次】
0:00:00 二つの日付、天皇が二人いた時代
0:01:01 鎌倉陥落と東勝寺の5月22日
0:04:44 建武の新政と、帰らない尊氏
0:08:05 背いた尊氏、九州から湊川へ
0:11:31 京に別の天皇、そして吉野へ
0:16:52 倒れていく南朝の大将と後醍醐の死
0:20:20 四条畷の戦いと吉野炎上
0:25:06 将軍の屋敷が囲まれる
0:29:44 打出浜と師直の死
0:31:34 尊氏が南朝へ、正平の一統
0:34:12 1352年2月26日、直義の死
0:35:27 三人の上皇と、神器の無い即位
0:40:51 尊氏の死、そして次の世代へ
0:44:08 九州に生まれた南朝の拠点
0:46:07 義満と楠木正儀の降伏
0:48:13 今川了俊と花の御所
0:50:54 明徳の乱
0:52:51 和約
0:55:19 吉野を発ち、大覚寺へ
0:57:34 閏10月5日、終わりの一日
0:59:38 なぜ59年続いたのか
【主な出典・参考資料】
[S01〜S03] 東京大学史料編纂所 編『史料綜覧』巻5(印刷局朝陽会、1928年)・巻6(同、1930年)・巻7(同、1932年)
この動画で参照した内容:幕府滅亡から1392年の和約・神器の授受までの日付と、天皇の見出しが2人並びから1人に変わる所(いずれも編年の綱文)
[S04] 東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第6編之1(東京大学)
この動画で参照した内容:六波羅の陥落と、番場での北条仲時らの自害
[S05・S06] 永井一孝 校『太平記』上巻・下巻(有朋堂書店、1922年)
この動画で参照した内容:870人余りの自害、稲村ヶ崎の潮、顕家・義貞の最期、四条畷と吉野の焼き討ち、賀名生、直義の死、神器の無い後光厳の践祚、尊氏の死
[S07] 塙保己一 編『群書類従』第13輯(経済雑誌社、1894年)所収『梅松論』
この動画で参照した内容:東勝寺の自害(数百人)、稲村ヶ崎、中先代の乱
[S08] 塙保己一 編『群書類従』第17輯(同)所収『保暦間記』
この動画で参照した内容:光明天皇の践祚、湊川の戦い
[S09] 経済雑誌社 編『国史大系』第10巻(公卿補任 中編)(経済雑誌社、1898年)
この動画で参照した内容:1338年8月11日の尊氏の征夷大将軍任官
[S10] 経済雑誌社 編『国史大系』第2巻(続史愚抄 巻29〜54)(同、1902年)
この動画で参照した内容:1392年の和議、吉野から大覚寺への道のり、閏10月5日の神器の移り
[S11] 塙保己一 編『群書類従』第2輯(同、1898年)所収『続神皇正統記』
この動画で参照した内容:後光厳の践祚と内侍所の辛櫃
[S12] 近藤瓶城 編『史籍集覧』第3冊(近藤出版部、1906年)所収『池の藻屑』『南方紀伝』
この動画で参照した内容:大内義弘が吉野に遣わされたこと、閏10月の大覚寺入り
[S13] 国立天文台 暦計算室「旧暦月朔表」
この動画で参照した内容:旧暦の日付のユリウス暦への換算
[S14] コトバンク所収の事典の項目(南北朝時代・南朝・後亀山天皇・後南朝・大覚寺・足利尊氏・征西将軍・花の御所。『日本大百科全書』『世界大百科事典』『デジタル大辞泉』『山川日本史小辞典』など)
この動画で参照した内容:南北朝の呼び名と始まりの数え方、征西将軍の動き、花の御所、合一の条件、大覚寺
【説明上の補足】
・日付は当時の旧暦です。1333年5月22日はユリウス暦の7月4日、1392年閏10月5日は11月19日です(S13)。7月4日から数えると約59年4か月で、事典の「南北朝57年」(1336〜1392)より2年ほど長いのは、幕府の滅亡から数えるためです。事典の多くは南北朝時代の始まりを1336年とします。
・東勝寺の自害は、『太平記』は870人余り、『梅松論』は数百人と書きます。腹切やぐらは自害の場所と伝えられますが、発掘で遺骨は出ていません。
・稲村ヶ崎の潮の話は『太平記』の語りで、史料編纂所の記録・『梅松論』は5月18日に先鋒が稲村崎を破ったとも書きます。
・北畠顕家の戦死は、記録は石津、『太平記』は安部野と書き、場所が分かれます。賀名生も『太平記』の語りで、移った日は確かめられていません。
・直義の死の日付(1352年2月26日)と毒殺の話は『太平記』によります。後光厳の践祚は、記録は8月17日、『太平記』は27日です。「神器のない即位」は『太平記』の言い方で、『続神皇正統記』は内侍所の辛櫃が京にあったとも書きます。
・尊氏の死は、記録・事典が4月30日、『太平記』は29日です。
・懐良親王の大宰府占拠(1361年)と今川了俊による退去(1372年)は事典によります。「花の御所」は通称です。
・和約の日は、史料編纂所の記録が10月25日、『続史愚抄』が15日です。『続史愚抄』『池の藻屑』は後世の編纂物で、同時代の日記は読んでいません。合一の条件(両統迭立など)は事典の説明で、履行されなかったとする事典もあります。
・南朝の年号「元中」が止まった日は一日に決められません。後亀山の上皇の尊号は2年後の1394年です。
【素材・音声等のクレジット】
史料画像・写真(いずれも Wikimedia Commons、国立国会図書館デジタルコレクションなどから)
後醍醐天皇像・足利尊氏像・足利義満像ほか南北朝の肖像画(パブリックドメイン)
『史料綜覧』巻6・巻7、有朋堂文庫『太平記』下巻、国史大系『続史愚抄』(国立国会図書館デジタルコレクション)
月岡芳年『大日本名将鑑』新田左中将義貞/竹内多町「湊川大合戦図」(ボストン美術館)/歌川国芳「四條畷にて楠家の英勇大敵を…」(アムステルダム国立美術館、CC0)/上杉本洛中洛外図屏風 花の御所の部分
写真「東勝寺跡」「腹切やぐら」撮影 Tarourashima/「八葉山蓮華寺」撮影 先従隗始(CC0)/「大宰府政庁跡」撮影 Saigen Jiro(CC0)/「石清水八幡宮」撮影 663highland(CC BY 2.5)
地図:Made with Natural Earth
ナレーション:Google Gemini 3.8 Flash TTS(ja-jp-storyteller-4)による合成音声
映像・BGM・効果音:チャンネルのオリジナル(史料画像のほかはプログラムで作図・合成)
#南北朝時代 #後醍醐天皇 #日本史
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