【保存版】これ一本でわかる元寇全史 | 900艘の船は、なぜ1日で博多から消えたのか
1268年、正月。筑前、大宰府。1281年、閏7月1日。肥前の海。この2つの日のあいだ、13年。のちに元寇と呼ばれる13年のその1度目、1274年10月、900艘の船が博多に来て、1日戦い、翌朝、消えていました。900艘の船は、なぜ1日で博多から消えたのか。返事をしない国、斬られた5人の使い、博多の浜の石の壁をたどりながら、国書の到着から弘安の役の大風まで、65分で通して見ます。
【目次】
0:00:00 2つの日、13年のあいだ
0:01:08 1266年、フビライの国書
0:03:03 1268年正月、大宰府に着いた手紙
0:05:04 返事を出さない朝廷
0:06:45 18歳の執権と、備えの命令
0:08:43 対馬の島民2人と、送られなかった返書
0:10:30 高麗の反乱と、趙良弼の来日
0:14:27 鎌倉の二月騒動
0:15:30 使いは5回来て、国は一度も答えなかった
0:17:57 900隻を造る
0:19:53 合浦に集まった900余艘
0:21:19 1274年10月3日、船団が出る
0:22:29 対馬・壱岐・松浦が襲われる
0:25:03 10月20日、博多の浜の戦い
0:27:37 10月21日の朝
0:30:52 1年後の「神風」
0:32:24 建治の備えと、長門に来た5人の使い
0:35:24 龍ノ口で斬られた使い
0:37:10 竹崎季長、鎌倉へ
0:38:39 博多の浜に石の壁
0:40:37 南宋が滅び、元は2度目へ
0:42:46 1280年、日本を攻める役所
0:44:16 東路軍4万と江南軍10万余り
0:47:17 6月6日、石の壁の浜
0:50:07 鷹島で待つ船、壱岐の戦い、京の祈り
0:53:57 7月下旬、鷹島に集まる
0:55:11 閏7月1日、大風
0:57:59 鷹島の残兵
1:00:02 900艘は、なぜ1日で消えたのか
1:02:47 その後、時宗の死とフビライの死
【主な出典・参考資料】
[S01] 山田安栄 編・重野安繹 閲『伏敵編』巻之1〜6(吉川半七、1891年)
この動画で参照した内容:国書・牒状、幕府の命令書、吉続記・深心院関白記・師守記などの引用、蒙古襲来絵詞の詞書、「神風荒く吹き」の文書
[S03・S04] 池内宏 著『元寇の新研究』本編・附録(東洋文庫、1931年)
この動画で参照した内容:元・高麗側の記録の整理、弘安の役の経過(志賀島・鷹島)、墓碑銘・軍忠状の引用、絵詞の奥書
[S05] 東京大学史料編纂所 編『史料綜覧』巻5(印刷局朝陽会、1928年)
この動画で参照した内容:各日の出来事と日付(文永の役・弘安の役、石築地、祈り)
[S06] 塙保己一 編『群書類従』第參輯(経済雑誌社、1893年)所収 将軍執権次第・関東評定衆伝
この動画で参照した内容:北条時宗の執権就任と死、使いの来着と斬首、二月騒動
[S07] 塙保己一 編『群書類従』第壹輯(経済雑誌社、1898年)所収 八幡愚童訓
この動画で参照した内容:対馬・博多の戦いの描写、21日朝の船のない海、閏7月1日の風
[S08] 塙保己一 編『群書類従』第貳輯(経済雑誌社、1898年)所収 五代帝王物語・神皇正統記
この動画で参照した内容:国書が着いた京の様子、2度の襲来を1つの大風にまとめた書き方
[S09・S10] 鄭麟趾 ほか奉勅修『高麗史』第1・第3(国書刊行会、1908・1909年)
この動画で参照した内容:900余艘の造船と合浦の出発、戦いの夜の大風雨、金方慶、弘安の役の兵・船・帰還者の数
[S11] 藤原兼仲 著・笹川種郎 編『勘仲記』1(日本史籍保存会、1917年)
この動画で参照した内容:閏7月14日の条(大宰府の飛脚が伝えた1日の大風)、残兵の数
[S12〜S17] 元史・東国通鑑・北條九代記・日蓮の書状・張百戸墓碑銘・薩藩旧記など(伏敵編・池内宏の引用で参照。原本は未確認)
この動画で参照した内容:元史の「官軍不整、又矢尽」・八月一日の風、5人の使いの詩、築地の割り当て
[S18] 国立天文台 暦計算室「暦月・節月データベース」(典拠:内田正男『日本暦日原典』)
この動画で参照した内容:和暦の月日と西暦(ユリウス暦)の対応
[S19〜S24] コトバンク所収の事典の項目(北条時宗・異国警固番役・竹崎季長・元寇防塁・蒙古襲来絵詞・元寇)
この動画で参照した内容:北条時宗の執権就任、異国警固番役の仕組み、「元寇」の呼び名
【説明上の補足】
・日付は当時の暦の月日に西暦の年を付けたものです。閏7月1日は、ユリウス暦で1281年8月16日(グレゴリオ暦なら8月23日、計算)。元史の「八月一日」は、日本の閏7月1日に当たります。高麗史・元史の月日は元・高麗の暦で、1274年10月3日の出発は高麗史の日付です。
・「13年」は国書が着いた1268年から1281年までの年の差です。国書の作成(1266年)からなら15年。国書の到着日は五代帝王物語が元日と書くだけで、ほかに確かめられず日は言いません。
・900艘は高麗史の「戦艦900余艘」、元史の舟900艘です(元史では大型船・快速船・水汲みの小舟が各300)。兵数は高麗史で蒙漢軍2万5000、高麗軍8000、船をあやつる者6700(足して約4万は計算)、元史は1万5000と書きます。
・1274年に船が引いた理由は記録ごとに違います。高麗史は戦いの夜の大風雨、元史は軍が整わず矢が尽きた、愚童訓は朝に船がなかったとだけ書きます。「200余艘が沈んだ」は史料編纂所の近代の整理で、同時代の数ではありません。
・「神風」の語は1276年の大宰府の文書が伝える神社の願い出にありますが、語自体はもっと古く、この文書を初出とは言えません。弘安の役のあとの宣旨・勘仲記は「神鑒」と書きます。
・対馬・壱岐の守護代の名と最期、愚童訓の船450艘・兵3万、杜世忠ら5人の詩とその評(北條九代記)は、軍記や江戸時代の編纂物の伝えです。石築地の割り当ては、江戸時代に編まれた薩摩の家譜の記録で、田1段につき1寸です。
・弘安の役は、東路軍がおよそ4万・船およそ900艘、江南軍がおよそ10万余り・船3500艘(高麗史世家。金方慶伝は江南軍の船を9000艘と書く)です。「14万」は江戸時代の蒙古寇紀が足した数で、同時代の史料にはありません。
・「54日」は6月6日から閏7月1日までの日数で、合浦を出た5月3日からは86日です。東路軍は6月中旬から鷹島の方面に退いていました。
・鷹島の残兵は、勘仲記が討ち取りと生け捕りで数千人、元史が「還る者は三人のみ」、高麗史が元の軍の帰らなかった者を十万あまりと書くなど、数が桁違いです(「三人のみ」は誇張)。掃討の日は閏7月5日と7日で割れます。
・絵詞の奥書の永仁元年2月9日は、永仁への改元が同年8月のため、後から書かれたとする見方もあります。
・使いが5回来て答えなかったこと、2度目が避けられなくなった並び、「一夜の神風」の話にまとまっていく流れは、記録の並びから見えるこちらの読みで、資料がそう書いているわけではありません。
・「元寇」は江戸時代以降に定着した呼び方で、当時は蒙古襲来・蒙古合戦などと呼ばれました。
【関連する回】
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【素材・音声等のクレジット】
史料画像・絵画・写真(Wikimedia Commons、国立国会図書館デジタルコレクション、国土地理院などから。特記のないものはパブリックドメインまたは CC0)
『蒙古襲来絵詞』(三の丸尚蔵館蔵)・『蒙古国牒状』(東大寺 宗性の写し)/北条時宗像・後嵯峨天皇像・後宇多天皇像・亀山天皇像(天龍寺蔵)・叡尊像(西大寺蔵)・日蓮像(久遠寺蔵)・フビライ像(国立故宮博物院蔵)ほか各肖像/『伏敵編』『群書類従』『勘仲記』『高麗史』(国立国会図書館デジタルコレクション)
写真:Saigen Jiro・Drivephotographer・ONO Masanobu(CC0)/Urashimataro(龍口寺)/Immanuelle(志賀島、CC BY 4.0)/663highland(石清水八幡宮・六波羅蜜寺、CC BY 2.5)/国土地理院(空中写真)
地図:Made with Natural Earth
ナレーション:Google Gemini 3.8 Flash TTS(ja-jp-storyteller-4)による合成音声
映像・BGM・効果音:チャンネルのオリジナル(史料画像のほかはプログラムで作図・合成)
#元寇 #鎌倉時代 #日本史
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